いきなり深いテーマなんですが。
みなさん一度は考えたことありませんか?
安楽死って絶対悪ですか?
制度化してはダメですか?
今年行われた先の衆議院選挙の比例政党に「安楽死制度を考える会」ってありましたよね。本気で一票投じようかと思ったのですが、今回は重視する政策が他にあったので別の党に投票してしまいました。
みなさん、死に際って想像したことありますか?自分の。自分の死に様。
私は、天皇陛下バンザーイって言いながら敵に体当たり攻撃するのが夢なんですが😅夢ですよ夢!現実にはありえないことです。
理想は、就寝中にスーッと苦しむことなく、誰にも迷惑をかけることなく、自宅で安らかに逝きたいです。きっとほとんどの方がそういう理想をお持ちではないでしょうか。
ところが現実はというと、抗がん剤治療で病院のベッドの上で苦しみながらとか、配偶者の名前と顔が一致しないボケ老人になってしまって、尿意も感じられなくなり、糞尿を垂らしながら自分の子供達に「いつ死ぬのよ」なんて陰口叩かれながら周囲に迷惑をかけっぱなしで逝くなど、とても先ほど申し上げた理想とかけ離れた最期を迎えることになるわけです。
その、大多数が迎えているような死に様でいいんですか?ということなんです。
死ぬ時は誰にも迷惑をかけずに逝きたくないですか?
そこで、安楽死を制度化しないか?という議論になっていくわけです。とても一筋縄ではいかない議論なんですが😅
死生観って十人十色。人それぞれです。100人いれば100通りの考え方がある。それは当然のことですし、当たり前です。
でも、選択肢の一つに「安楽死」っていうものがあってもいいんじゃないか?と思うわけです。必ず安楽死で死んでくれというわけではないんです。あくまで最期のあり様を選ぶのはご本人。そのご本人が選ぶのであれば認めてもいいんじゃないかと思うわけです。
制度って名前なので、必ずそれを利用しなくてはならないのかっていうと、そうじゃないです。あくまで「こういう最期も選べますよ」ということです。
私の近しい人にも認知症で自分の子供の顔と名前が一致しない。数分前、数秒前のことを忘れている、車の運転もできなくなったというかたがおられます。かろうじてご自身の意識ははっきりしており、妻の顔と名前は判別可能。
でも、この方も近い将来、妻が誰かわからなくいなり「知らない人が家の中にいる」と半狂乱になり怒り狂い、怒りで力が入ったところで脱糞、失禁。でも本人は気づかずにいる。
そんな未来が近づいているかもしれません。
その未来が現実になったら、みなさんどうしますか?
きっと手に負えませんよ。
もし自分がそうなったとしたらと考えると、心から嫌です。
自分の妻を妻として認識できている間に、自己判断ができるうちに、安楽死の決断をしておきたい。
自分の愛した妻を苦しめるわけにはいかない。
残された子供達に心配も迷惑もかけたくない。
自分がかろうじてキレイなうちに、いい印象のままで姿を消したい。
書いていて辛いのは確かですが、正直な気持ちです。
私は死ぬのは怖くはないのですが、本当に、心から周りに迷惑をかけて愛した人を傷つけて憎まれながらこの世から去っていくなんて、考えたくないんです。
そう考える方、この世界中に何人かはいらっしゃると思うんです。
だから、「選択肢」として安楽死という手段を提供する。それを合法化する。
そんなに悪な事ではないと思うのですが、どうでしょうか?
ただ、安楽死を認めるにはハードルを高めに設定する。つまり、自殺に近くなってはダメなんです。
まず、年齢は満65歳以上とすること。これは今後定年が70歳になったら70歳に変更するものとする。つまり、働き盛りの方にはこの制度の利用は認めないという事です。実際には定年に達しない方でも認知症になるケースがあるのですが、安楽死という特性上、安易に認めるのは合理的ではないと判断します。
次に、安楽死希望者本人の意思に基づいて行われるものであること。あくまで本人の希望に基づき、はっきりとした意思確認が前提ということ。その意思確認は二名以上の医師が立ち会って行うこと。
そして、家族の同意が得られていること。本人を含めた肉親同士で十分に話し合った上で決定するべきだと思います。
さらに、認知症、徘徊、重度の身体障害、日常生活を送ることが今後困難になると見込まれるような重大な障害の発生など、安楽死を希望する本人の生活に関わる者がその本人の生活に関わることによって日常生活を送ることが困難となるような状況が生起している、または生起することが合理的に判断できる場合。
という条件を付与することによって、「生命軽視だ」「姥捨山」「社会的に不要になったものは死ぬべきなのか」といった批判をかわすことが出来るのではないかと考えています。
といったことを数年前に近しい人(50代半ばの男性)に打ち明けたところ、反対されました😥
安楽死を世の中に浸透させるのは、難しいですね。とくに日本では難しいかもしれません。
日本独自の死生観。仏教とも通じてくることですね。
つまり、生の苦しみもまた人生の一部であるということ。
生きるということは、とても平坦な道をゆくわけではないということ。
生きるということには痛みも伴うということ。
そのことを理解しないまま人生を終わらせるわけにはいかない。
例えば足腰が悪くてとても一人では行動できす、誰かの助けが必要となった。その人にとっては仕事かもしれないが、自分が健康で一人でなんでもできればこの人は介護の仕事をしなくても済んだかもしれない。ああ申し訳ない。ありがとう。といった感情に気づくのもまた人生であると。自らの苦しみを知り他者の苦しみを知る。安楽死はこの苦しみから解放されることになる。
ということです。深いですね。宗教的な考えだと思います。
先ほど登場した50代半ばの男性は、このようなお話をされていました。
人生には、味わうべき苦しみがある。その苦しみから逃げてはいけない。
うーん。みなさんはどのようにお考えになりますか?
苦しみから逃げてはいけないのでしょうか?
難しいですね。
だからこの安楽死問題は議論に終わりがなく、結論が見出せないのかもしれません。
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